昭和57年4月2日 朝の御理解 入力者 北村修司
御理解第37節
「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
昨日は、んー、四月一日のお月次祭に併せて、えー、勧学祭、でから、あー、まる少大会、午後から引き続いては、私の、んー、誕生、誕生の祝賀パーテーがあのように盛大に、いー、開かれ、もう一日をまあ充実したというか、あー、有り難い一日で終わらせていただきました。んー、もう本当に、あの、おー、感動とも興奮ともつかないような、あー、一日でしたが、何というても圧巻は、あの、修行生の方たちの、おー、その、演劇です。お芝居の、いわゆるその、んー、勧進帳でしたね。もう驚いてしまうというか、感心してしまうというか、本当に東京の歌舞伎座で見た勧進帳よりも私は興奮しました。これもう本当にそうでした。しかもその興奮は夕べ一晩中続きました。
もう本当にその一心とか一生、私はここではあの、まる少の場合もそれを思ったんですけれども、もうあの、大会を開く、今度は十五周年の記念という事もあって、もう本当に幹部の方たちが、ま、一生懸命で、えー、あの、大会をあのように盛り上げて参りました。んー、昨日の修行生の方たちのあの勧進帳はもう、とにかく一心を立てればどういう事でもできるという事ですね。もう、みなさんも感じられたと思いますけれども、もう例えばあの、えー、私あの、何というでしょうか、もう一番、あの、もう勧進帳、おー、を出したらもうどんなお芝居でもできんことはないです。というほどしに難しい。もし今度の出し物に勧進帳をするという、もし私の(御取次を頂いたら?)そりゃあいくらなんでん、難しかばいっちいうとこでしょうね。ところが、もうあの、もう第一配役も素晴らしかったしね、えー、もうそれこそ手を抜かずにね、もうその、おー、まあその演技力の素晴らしいのにまた驚きました。もう発声法といい、もうあの、一番始めに、えー、ありゃあ、そりゃ恒行先生だと、そうですけども、富樫の役を、舞台に出て、あの台詞の素晴らしい事ね。もう、あの、弁慶にとってはいよいよそれを感じました。もう一番難しいといわれるあの(えんれん?)の前なんかはね。それぞれの、山伏問答なんかも(?)、もうそれこそどんな玄人がしても大変な難しいミスが出るところなんですけどね。ええ。
それから、あの、義経の型の素晴らしさね。もう私はこれにも驚いてしまいました。もうその、一場面したら、もう一カット一カットというでしょうか、もう写真に撮るならばその型の美しさに驚きましたが、もうよっぽど監督が素晴らしかっただろうと思います。いや本当、ありゃあ自分どんが稽古しただけじゃね、あげなでけんじゃん。監、名監督がおるとね、そこはこうせろ、ああせろとずーっとこう、あの、指図しますからね、だから型がああいう風に直っていくんです。もうあの、おー、まずは終わって、あの、弁慶が((六歩で?)下がるとこなんか、もう、お、最後まで驚きでした。しかも先生なしにあれだけの事ができるという事はもう驚いてしまって、まあ、あー、その、いつまでもその興奮が、おー、治まらないぐらいでしたけれども、少し心配になってきました。(笑)いや本当です。はい。こりゃもう金光様の先生になるとか言わん・・・(笑)
いや、昔はね、村芝居とか、あの、ま、おー、町で田舎芝居がありますよ。お百姓さんたち、商売人が集まって一つ、そうすっともう商売しようごつなかごとなってね、そして何々一座ちゅうごたるのば作ってから。(笑)回ってそれのごたる、そしてまあ、帯には短いたすきは長しといったような結果になる例がいくらもあったんです。はい。それで私はね、あのそん、素晴らしい素晴らしいと、ていうか本当に、あ、とてもただ一回だけの、その、おー、事でです、もうどこにでも、それこそ、あの、(なおし?)、あの驚きます事はね、あの、小道具の一つ一つが銘々で作ったという事。装束もそうです。装束というか、あの衣装。もうそれがほとんど男の人たちばかりでやってる。もうこれには私聞いてから驚いてしまってから。もう本当に信心もこれだけの一心を立てるならお徳が受けられますね。本当。しかもわずかばかりの間に、あの長調の台詞をですね、もうよどみもなく間違いもなく、あれをやってのけるという事はもう驚いて驚いて、もうこりゃね、もう絶対神様のおかげを頂いての事としか、一心にですね、神様が、あのー、やっぱり、一緒に働いておられるとしか思えませんでした。
まあ、あー、最後、始めから最後まで、なら昨日の、おー、お祭りから最後の、おー、祝賀パーテーの最後まで、えー、まあ、本当に、まあいうならば合楽ならではというような雰囲気の中に終わらせて頂きましたが、今申しますように、私が心配になったというのは嘘ではない、本当です。はい。こりゃ信心がね、本当に、あーのもう、それがね、私が毎日研修の時に出てきてから、そういうそぶりも見せませんでしたからね、私には。もうこれにも感心しました。もう(?)。はい。
ね、そしてその事を今朝からの御祈念にも、まだ少し興奮が残っておりましたけれども。そしてその、んー、ところが、銘々がお芝居が好きとかああいう、い、えー、あげな事が好きだからやったのではなくて、問題は親先生が喜ぶ、親先生に喜んでもらいたい、この一念でやっとりますから、神様がそれを全部修行として受けておられるわけです。
ね、これはお互い分からなきゃならない事ですけれども、一つの事が成就する、と、その成就したためにおかげを落とすという例がいくらもございます。おかげを頂く、いうならば、いた、あの、頂いて、その頂いたおかげが、け、怪我の元になるという、うー、例がございます。ね、ま、そんな事もありますまいけれども、ま、あー、ここの先生方がです、ね、ああいう事に、いうならば、夢中になって、それこそ金光様の先生、親神のごたる、ようなね、ま、微かながらでも、そういうそのものがあるとするならば、素晴らしくできた事がかえって怪我の元になるという事にもなりかねないのですけれども、なら、好き者が集ってやるのではなくて、とてもとてもね、(明治劇?)なんかおよぶところじゃないです。もう私はそれを思いました。本当の歌舞伎役者に見せたいと思いました。素人でもこんくらいの事はできるぞと。例えば、なら、明治劇なんか見おったら、見とってからね、おかしかねとかね、あそこはもうちょっとどうかっちいうところがあるでしょうが。ところが昨日は始めから最後までそれを感じませんでしたね。うん、本当に驚きでした。
ね、だからそういう事が、一つの、まあ一つの成就といたしますなら、その成就した事が怪我の元に、その、ならないようなおかげを頂くために、お互いが一つの念願を持っております。ですから、そこまでの念願が成就したら、やれやれで、その念願が成就したために、ね、後の信心が乱れて、おかげを落とすという例はたくさんあります。そこで、あ、う、神様は、おかげを願う、おかげを下さる、神様も下さりたいけれども、ね、やったためにかえっておかげを落とすような事があってはならんと、念を押した上にも念を押して神様がおかげを下さる働きがあるのですから、いうならば、この修行の精神というかね、例えば、なら人間ですから、まあそういう、な、昨日の、んー、あの、勧進帳じゃないですけれども、ね、それが、好きでやるというのではなくて、もうとにかく、親先生が喜んでくれる、もう、こ、だからそのままが修行なんですよね。
ですから様々なことを通してお互い修行させて頂くのですけれども、結局はどういう場合であっても、修行という事を忘れては成らない、それが生涯どんなにおかげを頂いても、例えば、今、例えば貧乏しておる人が金満家になりましても、億万長者になりましても、その、なったためにかえっておかげを落とすという事がない事のために、只今修行中という時に、もう絶対の信心を頂いておかねばならんという事ですよね。
どうぞ。